Home > 免疫発見の歴史

「免疫発見の歴史」の一覧

自己?非自己?:自己寛容

自己はどのように認識されるのか

ポール・エーリッヒは一匹のヒツジから赤血球をを取出し、もう一匹の別のヒツジに注射していろいろな変化を調べていました。
何週間か経つと注射されたヒツジの体内には必ず提供者のヒツジの赤血球を凝縮させ、溶血させる抗体ができていました。
これは、別のヒツジを使ってやってもみても同じことでした。
そこで、提供者の赤血球をもとの提供者自身のヒツジに注射して戻してみたのです。
何も起こらない。
偉大な思想家エーリッヒの「偉大さ」はここにあるのか? 彼には、この現象が不思議に思われた。
なぜ、同じ赤血球が自分に対しては抗体を作らないのか?
同じ赤血球がほかのヒツジでは抗体を作り、自分自身に対しては抗体を作らないのだろうか?
ある人にとっては、当たり前で何の疑問も感じないことをエーリッヒは不思議に思い、
「何が、自分自身と自分でないものを区別しているのか」という疑問を持ったのです。

バブルボーイの誕生と重症複合型免疫不全症・SCID治療の始まり

バブルボーイと呼ばれたデービッドの誕生

重症複合型免疫不全症(severe combined immn\unodificiency disease:SCID)SCIDの治療は、通常、抗生物質が使われます。
ある程度、有効ですが、ウイルス感染を防げるわけではありません。
そのため、感染を繰り返し、体力も奪われ、徐々に重篤化しているのを見ている以外に何もできないのが現実でした。
骨髄移植が望ましいのですが、組織適合性の問題があり、骨髄移植はだれでもできることではありません。

治療困難な重症複合型免疫不全症:幼い子供の死

重症複合型免疫不全症の恐怖

先天的にT細胞、B細胞の両免疫系に欠陥をもつ子供が生れることがあります。
ほとんどは生後まもなく悲しみの死が待ち受けていることを思い知らされます。
この免疫不全は重症複合型免疫不全症(severe combined immn\unodificiency disease:SCID)という治療困難な病気です。
どうして、治療が困難かというと、あらゆる病原体にたいする免疫機能に欠陥があるため、くりかえし重篤な感染症をおこし、一時的に回復しても、結局徐々に重症化してしまうのです。
しかも、原因は遺伝子の欠損で、そのため、免疫に必要なT細胞、B細胞の機能に欠陥が生じているのですから、事態は深刻です。
徐々に重篤化して、ほとんど生後2年のうちに死を迎えることになります。
生命にかかわる重大な遺伝子の問題を抱え、治療の手段が見いだせないのが実情でした。

胸腺形成不全による免疫不全

胸腺の形成不全が引き起こす重篤な症状

先天的な胸腺の形成不全は、同時に副甲状腺の欠損、顔面の奇形、頭部の発達異常を併発するために、経験のある小児科医は一目でそれと気づき、見逃すことはありません。
根本的な原因は胎児期の発育過程の異常で、さまざまな症状を伴う特徴があります。
副甲状腺の異常は、低カルシウム血症を起こし、さらに心疾患や精神の発育障害をもたらします。

胸腺:やっと見えてきた免疫機能の素顔

免疫についての新しい2つの情報

過去の歴史を振り返ってみると、考え方を一変するような思想や発見は、なかなか受け入れられませんでした。
人間は本質的に保守的な反応をします。
ところが、「見向きもされない時代」が終わり、新たな事実が受け入れられ、注目が集まると、多くの研究者が競って新しい事実を究明・解明しようと、力が集中的に向けられるようになります。
すると、今までの長い停滞がうそのように、一気に研究が進み、事実が解明されてしまうことがたびたびありました。
1950年代にブルトンにより報告された無ガンマグロブリン症のケースは、抗体の働きと、抗体がかかわっていない免疫の働きに光を照らしました。
1960年代にはディ・ジョージが免疫機能に胸腺が深くかかわっていることを暗示する報告をしました。
免疫学は、まさに次の段階へ進むためのドアの戸口に立っているような状況です。

病原菌論だけでは解決できない問題

病原菌があっても病気になるとは限らない

病原菌と病気の関係がなかなか受け入れられなかった背景には、いろいろな問題がありますが、その一つに、病気の原因となる病原菌は、健康な動物や人の中にもあることがわかっていました。
なぜ、同じ病原菌があるのに、一方は病気になり、もう一方は病気にならないのか、そういうことには、なにも答えがありませんでした。
病原菌が病気の本当の原因なのか、実はもっと別の原因があるのかも知れない。
これは、病原菌説がなかなか受け入れられなかった理由であり、その後も未知の問題となっていました。

抗体以外の免疫機能の発見

ファブリキウス嚢への興味から思わぬ展開に

ブルース・グリックはオハイオ州立大学院生だったとき、あることに興味を持ち、実験をしてみることを思いついた。
それは、鳥類に特有の臓器ファブリキウス嚢が何の働きをしているのか調べてみたいということでした。
彼の時代(1950年代)、まだファブリキウス嚢が何のためにあるのか、どんな働きをしているのか、まったく知られていなかったためです。

記憶する免疫:記憶は脳だけではない

私たちの身体は、一度、異物に曝されると、次回はその異物に対して、免疫系の反応がより強力に働き、異物を撃退する。
はしかに一度かかると、二度かからないのは、以前かかったはしかを免疫が記憶し、もう一度はしかのウイルスが体内に侵入してきたとき、病気になる前に、免疫が撃退してしまう。「はしかに対して免疫がある」というとき、免疫のこの記憶力を指しています。

パスツール:発酵と微生物の研究から病原菌と病気の関係を解明

ワイン・ビール製造と発酵

ワインやビールの製造では、発酵が重要であることは、当時から知られていました。腐敗も発酵と同じような現象であることも知られていました。
パスツールは発酵や腐敗が細菌などの微生物の働きで起こることを証明したのです。

ロベルト・コッホの偉業:つぎつぎに病原菌を発見・炭疽菌・結核菌・コレラ菌

ジェンナーの種痘により、天然痘の予防・治療に道が開かれ、一定の成果を上げることができましたが、それは次の新たな研究の幕開けでもありました。
この分野で、当時、世界をリードしたのはフランス・パリのパスツールとドイツ・ベルリンのロベルト・コッホです。二人は国際的な事情から互いに激しいライバル意識を燃やし、細菌の発見、細菌学の研究競争にしのぎを削ることになります。

微生物学の台頭:微生物研究の機運の高まり

ジェンナーの功績と限界

ジェンナーの開発した種痘によって、多くの人を死に至らしめた恐るべき病気・天然痘の根絶に向けて人類は大きな一歩を踏み出しましたが、同時に、種痘を実施する医師でさえ、種痘・牛痘の接種によって、何が起きているのか、ということは、まったく分かっていませんでした。
種痘を実施したところ、「結果が良かった」というだけで、理由はジェンナーを含め、誰にもわかりませんでした。
それは、そもそも、天然痘がどのように発病するのかわかっていなかったのですから、仕方がありません。

WHOによる天然痘の根絶宣言

種痘が世界に浸透

WHOの総会で「世界天然痘根絶計画」が可決されたのは1959年です。
その結果、世界各国で、種痘が行われるようになり、天然痘は、またたく間に、減少し、ついに、1977年ソマリアでの発生を最後に、天然痘は発生していません。
1980年、WHOは天然痘根絶宣言をするに至りました。これは人類が病を完全に制圧した最初の例です。自然界に天然痘のウイルスそのものが、もはや存在しないものとされているのです。

人痘接種から牛痘接種へ:ジェンナーの功績

牛痘と天然痘の関係に注目したジェンナー

人痘接種に対して、牛痘に感染することで、天然痘への免疫を得ようとする試みが出始めますが、本格的に注目して研究をしたのが、ジェンナーでした。
彼は、人間の病気のいくつかは、家畜から人に移ったものと考えました。天然痘も、最初、馬から牛へ、そして牛から人へ感染したものを考えたのです。彼は、天然痘の免疫は牛痘接種でも可能に違いないと考えたのです。

牛痘への注目が集まる

牛痘に感染した人が天然痘に強い抵抗力を持っていることに人々が気付きはじめていました。
現在では牛痘のウイルスと天然痘のウイルスの遺伝子の95%以上が同じであることがられています。
牛痘に罹った牛は、天然痘の軽い症状に似た症状を示しますが、重くはならないで、回復します。
また、牛痘に罹った牛は二度と牛痘に罹らないことも農家ではよく知られていました。

人痘接種:英国王室の決断

天然痘の流行の恐怖は人々を追い詰めた

メアリー・ワトレー・モンターグが英国で初めて自分の娘に人痘接種を行って間もなく、英国王室のキャロライン皇太子妃は、自分の娘たちにも、人痘接種をしたいと思うようになりました。
英皇室が、まだ医療として確立していない人痘接種のような治療法(予防法)を採用したいと考えたということは、当時、天然痘の脅威がどれほど大きなものであったか想像させるのに十分なことといえます。

ワクチンVaccineという名前の由来と牛痘が使われた理由

牛痘に注目したジェンナー

ジェンナーが牛痘を接種したのが名前の由来

英国では、天然痘で人口の1/4が死亡するというほど流行し、人々はいつかは自分も天然痘で死ぬに違いない、と恐れおののく時代に、ジェンナーは、牛に発生する天然痘に似た病気の牛痘に注目します。
牛痘は、牛の乳搾りをする女性たちにも感染し、手に発疹ができます。
しかし、牛痘に感染しても人間は重症にならず、症状は軽く済みます。
そして、非常に需要なことが人々の間で語られていました。
それは「牛痘にかかると、天然痘にかからない」ということでした。
そこで、さまざまな研究の末、ジェンナーは牛痘の膿を人の腕に接種してみたのです。

人痘接種の成功:免疫と感染について漠然とした理解が生まれる

天然痘:いつかきっと罹る病気

17世紀のヨーロッパでは、天然痘は、死ぬまでには(天然痘で死ぬかもしれないが)きっと一度は罹る病気として、恐れられていました。
天然痘の死亡率は高く、患者の死亡率は1/4を超えるほどだったということです。
そして、天然痘で死ななくても、病気の後は、顔や身体に、はっきりとした無残な目立つ跡が残るため大変恐れられていました。

人痘接種:推進派と反対派で二分

人痘接種:ブームの陰で

どんなことでも新しい試みは反対に出会います。
とくに人命にかかわること、人生観にかかわるほどのことでは、反対も激しくなります。
メアリー・ワトレー・モンターグ女史が英国に紹介した人痘接種は、ある意味で華々しい成功を収めました。
しかし、成功率は100%ではありませんでした。
多くの人のいのちを奪っている恐ろしい天然痘の膿を健康な人に接種すると治療法ですから,
ある意味で危険を伴うことは当然でした。そして、失敗は生命にかかわる可能性があります。
失敗は反対派の人々に加格好の攻撃材料を提供することにもなります。

天然痘撲滅の最初の一歩:人痘接種の決断

天然痘に罹ったメアリー・ワトレー・モンターグ女史

才色兼備のメアリーは結婚すると、まもなく天然痘に感染し、一命はとりとめたものの、回復後の彼女の容姿は変わり果ててしまう。
顔をはじめ体中に 彼女の受けた衝撃はどれほどだっただろうか。
「生きているだけでも、運がいい」、他人は簡単に言うが、まだ若い彼女が人目を気にして生きる辛さも相当なものだ。
その彼女が夫とともにイギリス大使としてに赴任したコンスタンチノープルで目にしたものは、実に衝撃的な光景でした。
彼女が目にしたのは、近づくのも恐ろしい天然痘患者の身体から、その膿を採って、健康な人の腕にその膿を傷つけながらすりこむ、という信じがたい治療法だったのです。

免疫について認識の広まり:ヨーロッパを襲ったペストの恐怖と二度なし

ペストの恐怖:歴史を変えるほどの死者数

ペストはヨーロッパでたびたび流行し、多くの人々の命を奪いました。
1438年の流行で、イギリスでは人口の1/3が死んだといわれているほどです。
人々がペストをどれほど恐れたかは、想像に難くありません。